父は難病だった。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)という。
発病して1年あまり,病名が確認されて5か月あまり,そして,呼吸することが困難になり,自分で病院に入りたいと言ってから1か月もなくしてこの世を去った。
ALSは現在の医学では原因がわからない病気である。
原因がわからないということは,治療法がないということである。
そして,治療法がないということは,死ぬのを待つしかないという,哀しく,寂しい病気である。
最初は腕が上がらないとか,力が入らないとかいっていた。
それで地元の国立大学(現在は法人)の医学部付属病院で検査を受けた。
年齢によるものか,脊椎等に原因があるのか,いろいろと検査したらしい。
しかし原因ははっきりしない。
そこでALSと疑われたのだろう。
神経内科のあるこれまた地元の某私立医科大学の付属病院を紹介された。
そこに入院して検査をした。
その結果,ALSと診断された。
しかし,ここから先が問題なのである。
その担当医は,家族への相談も何もなく,父に病名やこのあとの病状について告げた。
つまり,
「あなたは,まもなく死にます。」
と。
「あなたは,体がこのように変化しながら死んでいきます。」
と。
その死の宣告を受けた父の驚きや,悲しみや,絶望はいかばかりだったのだろう。
いまではすでに聞くすべもない。
しかし,医者がどんな言い方をしたにせよ,病状についてはっきりと告げたことは間違いがなく,つまり自分の死を覚悟せざるを得ない状況に追い込まれたのだ。
告知を受けて,父は退院してきた。
家に帰ってまず父がしたことは,診断書をコピーして家族に見せたことだ。
そして,病気について家族に説明した。
父は言った。
「死ぬしか残されていない。」
筋萎縮性側索硬化症などという病気があることさえも知らない家族は,本人からその病名を聞き,説明を受け,信じられない思いとともに,悲しんだ。
なぜこの医者は家族にまず相談しなかったのだろう。
なぜ,家族に病気のことを説明しなかったのだろう。
父の驚きや,悲しみや,絶望を思うとき,逆にこの医者に対して怒りがわいてくる。
がんの告知については,きっと本人に言うのかどうするのか,家族と相談することが普通なのではないか。
しかも,がんの場合必ず死ぬわけではない。
もちろん死に至る可能性はある。
だからこそ,本人に告げるのか,どうするのか,家族に相談するのではないか。
だがしかし,がんならば希望を持って病気について語ることもできる。
だが,この医者は,必ず死ぬとわかっている病気の告知について家族に相談しなかった。
そして,さらに言ったそうである。
「まもなく死ぬ病気であることを知り,それに対する心の準備をしてほしい。」
と。
当然のことながら,病気は治るだろうと思っていたし,これからも老後やりたいことがたくさんあったはずで,まだまだ気力もあった父に,なんの配慮もなしに,「あなたは死にます。」とだけ告げ,しかも「死ぬことに対して心の準備をしてほしい。」とだけ言った。
だが,この医者は心の準備に一体どれだけ関わってくれたのだろうか。
答は「全くなし」である。
それどころか,この医者は医者でありながら,病気を治すのではなく,逆に患者にもう一つの病気をつくってしまったのだ。
「人生に対して絶望するという心の病」をつくってしまったのだった。
そんなにかっこよく「心の準備」を言うのなら,その心の準備に手助けをするべきではないのか。
末期患者に対する心の介護に配慮すべきではないのか。
だが,この医者は何もしなかった。
むしろ「心の病」をつくり出しただけの,全く無責任な医者である。
あまりの医者なので,一人で直接この病院へ医者に会いに行った。
だが,言うことは同じであった。
「心の準備をしてもらうため。」
と。
まさしく,あまりにも冷淡な態度に,あきれるしかなかった。
果たして,神経内科というところでは,病気の告知について医者の間で検討することはないのだろうか。
いや,特に神経内科という特定の分野だけに限らないだろう。
その患者が死に至る病であるときに,本人に告げるのかどうするのかについては,どんな分野にもあてはまるだろう。
そして,その告知は慎重にあるべきだ。
医者の個人的な信念や,考えで行うべきことではない。
その患者がどういう考えで,どんな生き方をし,どんな精神構造の持ち主なのかをやはり知るべきなのだ。
その上で,告知すべきなのだ。
父のように神経の細い人間,神経質な人間はどこにでもいることだろう。
「あなたはまもなく死にます。」と言われて,平気でいられる人間が,この世の中に一体どれだけいることだろう。
まもなく死ぬなら,その短い人生を輝いてみせる,とこれまで以上に生き生きとできる人間が,この世の中に一体どれだけいることだろう。
そんな決意を1日や2日でできる人間がこの世の中に一体どれだけいることだろう。
百歩譲って医者の個人的な信念で告知するならば,そのあとの支援をすべきだ。
告知することによって,新たな心の病をつくりながら(つまり自分の行為が病気を新たにつくっていながら)そのあとは知らん顔をするなど,まったくもって最低の医者である。
告知による心の準備に十分に手助けをするのであれば,そして,幸せな人生だったと思いながら死んでいけるのであれば,それもまたいいだろう。
死に対する恐怖や不安をやわらげ,安らかな眠りにつけるような覚悟をつけさせてくれるなら,それもまたいいだろう。
やり残したと思われることについて,しっかりとやり終えたという充実感を味わわせてくれるのなら,それもまたいいだろう。
だが,そんな手助けも何もなく,人を絶望の淵に追い込むだけ追い込んで,その心の準備をするのは自分のことですと知らん顔をするなど,あまりではないか。
自宅に帰ってきた父は,少しは気力をふりはらい,自分でできることは自分でしようと試みていた。
神経は細いが,我慢強かった父は,しかしそれでも,死の3週間ほど前には,もうだめだから,つらいから,病院に入院させてくれと言った。
そして,3つ目の,最初に診断を受けたところでもなく,告知を受けたところでもなく,家から一番近い病院に入院した。
すべての医者に願いたい。
医者は病気の告知に細心の注意を払うべきだ。
病気を治すのが医者であって,病気をつくるのが医者ではない。
人の心の痛みがわからない人間は,医者にならないでくれ。
合掌
父の十回忌に息子記す